昨日、ホワイトシップという会社のビジョンワークショップに
参加してきました。
恥ずかしながら、写真が私の描いた絵です。
額になんか入れてもらっちゃって、もう!
子どもがよそゆきの服を着て
照れてしゃべらなくなっちゃったみたいになってます(笑)
パステルで描きました。
指でゴシゴシ画用紙をこすって色を広げたり薄めたりする
「コスリング」という手法(「ここ、笑うとこです」クニさん談)
指先で使うのってこんなに気持ちいいものでしたっけ?
あれ?私しばらく息してなかったのでは?と思うくらい
集中していました。
結構クセになりそうです。
最後に参加者同士でお互いの作品を鑑賞しあう
つまり、どう感じたかを言葉で伝え合うという
時間がありました。
言葉って、豊かなんだけれども
やっぱり記号だから、限界があるんだなあ。
限界を示す、境界を示している
というのが言葉の成り立ちであるから
当然のことなんだけれども。
だから言葉を遠くへ飛ばそうと、広げようと思ったときには
何かを伝えようとか、説明しようと思った瞬間に
それが不可能になってしまう。
むしろ反対に向かわなければならない。
言葉そのものを無意識化する必要が出てくる。
その言葉を知らなかった頃の感覚に戻ってみる。
「ねえ、この黒くて甘いごわごわしたにおいがする液体はなに?」
「それはコーラというものだよ」
という時点に、自分を引き戻してみる。
そのときに改めて、言葉を少しだけ味わったり
つかめたりするかもしれないと思うのだ。
そして、ものすごく単純に言ってしまえば
このコーラに、別の名前をつけることができたときに
あなたはすこしだけ遠くへ行くことができる。
でもそれでもほんのすこし。
たとえば軌道を数度ずらすことができたくらいのもので。
しかしそれももう「コーラ」とは永遠に交わることのない
新しい軌道が生まれたわけだから、人類の偉大な一歩ではある。
ところがどっこい。
アートはそれ自体が、まだ名前のないものである。
発見した星に名前をつけるように
作者は作品に名前をつける。
そして、それは実際の言葉の名前、ということ以上に
作品そのものが唯一無二のものとして独自の軌道と経験を持つ。
まるで人間のように。
だからアートとは、生きることそのものなのだ。
描いた後、自分や皆さんの作品を眺めながら
そんなことを考えていました。
興味のある方はこちらのHPに詳細があります。
一回のクラスが10名くらいなので、お申し込みはお早めに!
私もまた家族や友人を誘って行こうと思います。
ホワイトシップ Earthのまん中にはArtがある
http://www.whiteship.net/